名古屋城と徳川家康|なぜ築かれたのか?織田信長・豊臣秀吉との関係も解説

名古屋城は、徳川家康によって築かれた日本を代表する名城のひとつです。

金のシャチホコが輝く壮麗な天守閣は、徳川幕府の権威と威信を示す象徴として400年以上の歴史を誇ります。

本記事では、なぜ徳川家康が名古屋の地に城を築いたのか、そして織田信長・豊臣秀吉との関係について解説します。

この記事でわかること

  • 名古屋城の前身「那古野城」と織田信長の関わり
  • 豊臣秀吉の生誕地としての名古屋の歴史的意義
  • 徳川家康が名古屋城を築城した政治的・軍事的理由
  • 日本史上の「三英傑」全てがゆかりを持つ特別な土地としての名古屋

名古屋が持つ地理的な強みを分かりやすく説明し、戦国時代から江戸時代への移り変わりの中で三英傑がこの地に注目した理由に迫ります。

目次

名古屋城の前史と織田信長の時代

名古屋城の歴史は織田信長の時代にまでさかのぼり、現在の名古屋城が建つ場所には「那古野城(なごやじょう)」という前身となる城がありました。

名古屋という地域は、京都と江戸を結ぶ主要街道・東海道上にあり、また熱田神宮を中心とした「熱田のまち」として古くから繁栄。

地理的にも木曽川・長良川・揖斐川の三大河川が注ぐ濃尾平野の東部に位置し、交通と物流の要衝として極めて戦略的価値が高かったのです。

1538年頃、織田信秀(織田信長の父)は今川氏から那古野城を奪取したと伝えられています。

幼少期の織田信長はこの那古野城で過ごしたとの説も。

後に信長は清須城へと本拠地を移しましたが、那古野城のあった場所は尾張の要衝としての価値を失うことはありませんでした。

名古屋城の前身である那古野城は織田家との縁が深く、戦国時代の重要な拠点として機能していたのです。

名古屋城と豊臣秀吉の関係

名古屋城自体は豊臣秀吉の築城ではありませんが、築城にあたっては豊臣家にゆかりのある大名も動員されており、間接的な関係があります。

名古屋の地は「信長・秀吉・家康」という日本史上の「三英傑」全てが、何らかの形で関わった稀有な場所。

豊臣秀吉の時代に名古屋城はまだ存在していませんでしたが、彼が生まれ育った土地に、後に徳川家康が壮大な城を築いたことは、政治的な意味合いもありました。

関ヶ原の戦い後も豊臣家は大阪城に健在。

徳川家康が豊臣秀吉の出身地に権威ある城を構え、自らの子を配したことは、徳川政権の安定と権威を示す重要なメッセージとなったのです。

名古屋城は、三英傑全てに縁のある土地に築かれたことで、戦国時代から近世への移行を象徴する特別な意味を持つ城となりました。

名古屋城築城の経緯

関ヶ原の戦い(1600年)で天下を掌握した家康は、新たな政権の安定と豊臣家への備えとして、戦略的要衝に強固な城を必要としていました。

1610年、家康は名古屋城の築城を命じ、加藤清正・福島正則・前田利光らの有力大名を総責任者に任命。

「公儀普請」として全国の大名が動員される大規模工事が始まりました。

築城は約5~6年かけて進められ、1612年(慶長17年)に天守閣が完成。

1615年(元和元年)頃には本丸御殿も整い、1616年(元和2年)に徳川家康の九男・徳川義直が入城しました。

以降260年間にわたり尾張徳川家の居城として繁栄。

家康が「自らの命令で」「大名の力を結集して」築いた名古屋城は、単なる城郭ではなく、徳川幕府の威光と権力を象徴する最高格式の城として、その壮大な姿を誇ったのです。

名古屋城はなぜ建てられたのか

徳川家康は、関ヶ原の戦い後も大阪城に健在だった豊臣家と西日本の大名への備えとして、交通の要所である名古屋に戦略拠点としての城を築くことで、政権の安定を図りました。

従来の清須城は地理的に手狭で洪水被害も多く、さらに東海道の防衛や城下町の拡張を目的として、新たな拠点が求められていました。

徳川家康は名古屋城を建設するだけでなく、「清須越し」と呼ばれる大規模な都市計画を実行。

清須城下の町民や寺社を名古屋城下へ移転させ、一大都市を形成しました。

名古屋城には最新技術と財力を結集し、金の鯱を飾った天守閣や豪華な本丸御殿を備え、徳川家の権威を視覚的に明示。

さらに、九男・義直を城主とすることで、御三家筆頭の尾張徳川家の拠点として位置づけました。

名古屋城は、徳川幕府の体制安定と西国大名への抑えという政治的役割、そして新興都市名古屋の発展の核としての経済的役割という、複合的な目的を持って建設されたのです。

名古屋城の歴代城主と尾張徳川家

主な歴代城主は下記の通りです。

代数 城主名(ふりがな)
初代 徳川義直(とくがわ よしなお)
2代 徳川光友(とくがわ みつとも)
3代 徳川綱誠(とくがわ つななり)
4代 徳川吉通(とくがわ よしみち)
5代 徳川五郎太(とくがわ ごろうた)
6代 徳川継友(とくがわ つぐとも)
7代 徳川宗春(とくがわ むねはる)
8代 徳川宗勝(とくがわ むねかつ)
9代 徳川宗睦(とくがわ むねちか)
10代 徳川斉朝(とくがわ なりとも)
11代 徳川斉温(とくがわ なりはる)
12代 徳川斉荘(とくがわ なりたか)
13代 徳川慶臧(とくがわ よしさだ)
14代 徳川慶勝(とくがわ よしかつ)
15代 徳川茂徳(とくがわ もちなが)
16代 徳川義宜(とくがわ よしのり)

幕末の動乱期、14代当主・徳川慶勝は1858年に井伊直弼から隠居謹慎を命じられましたが、1860年に謹慎を解かれ、1863年以降に藩政の実権を回復。

1868年には新政府の圧力を受け、藩内の佐幕派を粛清(青松葉事件)し、新政府支持へ転換しました。

名古屋城の特徴と見どころ

徳川家康は、徳川家の威光を示すため、当時の最高技術と莫大な財力を投入して名古屋城を建設しました。

特に金箔を貼った鯱(しゃちほこ)は、権力の象徴として城のシンボルとなっています。

天守閣は、第二次世界大戦中に焼失したものの、1959年に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建され、外観は焼失前の姿を忠実に再現しました。

金鯱は新たに制作され、当時の技術と意匠を継承。

城の正門近くには金のシャチホコの実物大レプリカもあり、写真撮影が楽しめます。

本丸御殿は1930年に天守閣と共に国宝第一号に指定されましたが、1945年の空襲で焼失。

2018年に復元された御殿の障壁画は、焼失を免れた原画や実測図を基に忠実に再現されました。

華麗で豪華な欄間や飾り金具、障壁画からは、当時の尾張徳川家の実力の凄さが伝わってきます。

名古屋城の建築物は、徳川幕府の権威と美意識を表現した芸術作品でもあり、日本の城郭建築の最高傑作の一つとして今日も多くの人々を魅了し続けています。

現代に受け継がれる名古屋城

戦争で焼失した天守閣は1959年に再建され、2018年には本丸御殿も復元されました。

2025年現在、天守閣の木造復元計画は検討段階で具体的な竣工時期は未定です。

名古屋城は国の特別史跡に指定され、観光名所としてだけでなく教育的にも重要な場所。

春の桜や秋の紅葉が美しく、季節ごとのイベントも開催されています。

400年以上の歴史を持つ名古屋城は、観光・文化・教育の中心として、徳川家康の遺産を現代に伝え続けています。

【名古屋城】観光の際は金シャチ横丁で徳川家康ゆかりの名古屋めしを楽しもう

本記事では名古屋城と徳川家康の関係性について、下記の内容を紹介しました。

  • 名古屋城の前身「那古野城」と織田信長の関わり
  • 豊臣秀吉の生誕地としての名古屋の歴史的意義
  • 徳川家康が名古屋城を築城した政治的・軍事的理由
  • 日本史上の「三英傑」全てがゆかりを持つ特別な土地としての名古屋
  • 名古屋城の歴史と見どころ

名古屋城の目の前に広がる「金シャチ横丁」は、「名古屋めし」を堪能できる絶好のグルメスポット。

名古屋めしは、家康や尾張徳川家の食文化に由来し、特に味噌を使った料理は江戸時代からの伝統を今に伝えています。

徳川家康は健康志向で質素ながらも栄養価の高い食事を好み、名古屋めしのルーツである八丁味噌は家康の時代から尾張徳川家に受け継がれてきた食文化のひとつ。

金シャチ横丁は「義直ゾーン」と「宗春ゾーン」の2つのエリアに分かれており、八丁味噌を使用したみそかつ、味噌煮込みうどんをはじめとする伝統的な名古屋めしから、現代風にアレンジされた味噌ソフトクリームや味噌カツバーガーなどの料理まで、バラエティ豊かな食体験が楽しめます。

名古屋城で歴史散策の際に、家康が愛したであろう名古屋の味を堪能することで、単なる観光を超えた歴史と食文化の融合体験が楽しめます。

名古屋城観光の際は、金シャチ横丁で400年以上続く徳川家の歴史を味覚でも感じてみてはいかがでしょうか。

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